京都の街を歩く。
京都は観光地だから、倖せな人達に出会える。
家族連れ、恋人同士、老婦人。
日常に帰れば、それぞれ悩みもあるだろうけれど、赤の他人とそういう関係性を築いて物見遊山が出来るなら、それなりに倖せだろうと思う。
私は、そういうの、もう駄目だ。
たぶん、ずっと、ひとり。
30年ぐらいでも、生きていれば、なんとなく分かってくる。
では、私はどうすべきかということを考えている。
身体が動き、精神が活潑な間は生きていよう。
もし、老人になって、老人にならなくても、身体の自由が利かなくなったら、自分の命は、自分で処理しよう。
結局、倖せを得るためには割り切るしか無いのだ。
あれもこれも望むから、迷って、おかしくなる。