叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

無二



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イカでしか撮れない写真があるなどと言うとアンチの人に顰蹙を買いそうだし、現にバルナックライカを使っている私でさえこの説には懐疑的である。

数値で表すことが出来るスペックにおいてライカが他のカメラを凌駕している点は少ないし、描写の特徴としてよく言われる黒の階調とか空気感というものも実に曖昧なもので、これを以てライカでしか撮れない写真があると断言するのはあまり説得力がない。

だから、そういう写りのことについてライカの優位性を云々するつもりはないのだが、ただひとつだけライカが他のカメラを圧倒していると思う点がある。

それは偶発的なシャッターチャンスにめっぽう強いという点だ。

これは、ライカが高速連写とかオートフォーカスの速さとかで撮影者を補助してくれるいうことではない。

実に不思議なことだが、ライカを持つと家を一歩出た瞬間から戻ってくるまでの全ての時間、その全てがシャッターチャンスであると考える意識が醸成されるのである。

もともとそのような意識を持っている撮影者ゆえにライカを選ぶのか、ライカを持つことによって撮影者の意識が変化するのかは分からないけれど、もしかするとこれがライカの魔力というものなのかもしれない。

イカを使用するうちに、今までは写真を撮ろうともしなかった場面をシャッターチャンスだと捉えるようになり、それ故に撮れた写真をライカでしか撮ることが出来ない写真だと言うのならば、私はそれに賛成である。

上の写真はまさしくそのライカの真骨頂を発揮した写真だと考えていて、電車から降りた乗客でごった返す京都駅のホームで人波に揉まれながら撮った。

私自身も降りた乗客の1人で、そのような状況で立ち止まってカメラを取り出したり設定をいじったりすることは周囲の迷惑になるから当然出来ず、群衆と歩調を合わせながら徐ろにカメラを取り出し、手元で素早く設定を整えて撮ったのだ。

こんな状況でわざわざカメラを取り出して写真を撮ろうと思えたのは、小型で写りの良いライカを所有していたからこそだと心から思う。

そういう意味で、ライカでしか撮れない写真があるという主張は、やはり正しいのかもしれない。