叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

議論


写真界隈における不毛な議論のひとつとして、写真の加工はどこまで許容されるべきかというものがある。

加工とは言っても、せいぜい写真の明るさや色味を調整したり、傾きの調整やトリミングをしたりするという話ではあるのだが、その程度であれば撮影者の意図を反映させる為に寧ろ行なって然るべきだという人もいれば、写真というものは撮影の時点で全て完結させておくべきで後から手を加えるなど以ての外だという人もいる。

侃侃諤諤のこの議論を、側から見ている分には大変愉快だったのだが、最近画像生成AIの功罪が取り沙汰されるようになってからというもの、写真を愛する者同士が足の引っ張り合いをしている場合ではないという危機感の方が強くなってきた。

写真の価値というのは、撮影者が明確な意図を持って現実に起こった事象を記録したものであるという点にあるのであって、それは加工の多少によって増減するものではないのだから、ちまちまと議論をしていても始まらない。

そんな下らない議論をしている暇があるのなら、我々は一致団結して、今後ますます進歩してゆくであろう画像生成AIに抗してゆかなければならない。

写真を撮るという行為は、ただ美しい画像を得るためだけに行われるのではないことに自覚的になって、それを啓蒙してゆくぐらいの気概を持たなければならない。

そうでなくては、美しい画像を幾らでも生み出すことが出来るAIに、写真文化そのものを滅ぼされかねないではないか。

必要なことは加工云々の議論ではなく、撮影の結果ばかり囚われることなく写真を撮る行為そのものを愉しむ精神だと思う。

個人の力は小さいが、私はあくまでも愉しみながら写真を生み出してゆくつもりだ。