叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

photograph


photographの語源は光を描くというところから来ているらしいが、フィルムカメラを使っているとその意味がよく分かる気がする。

被写体が反射した光をレンズの絞りとカメラのシャッターを使って良い塩梅に調整し、それをフィルムに届けることによって写真にするのがフィルムカメラの原理だが、仕上がった現像済みのフィルムを眺めていると、間違いなくそこにあった光を記録したのだという感覚が実感としてして迫ってくるのだ。

デジタルカメラも原理は同じなのだが、データを物理的に手に取ることは出来ないから、光を記録している実感はどうしても湧きにくい。

さらに言えば、今はそのデータを原型を留めないほどに弄り回す人が増えてきていて、曇りの日を晴れにしてみたり、彩度を露骨にあげてみたり、フィルム風という訳の分からない加工をしてみたりとやりたい放題で、そうやって出来上がった画像は最早photographではなくpictureと呼ぶべきではないかとさえ考えている。

写真をどこまで弄って良いのかという線引きは非常に難しいし、人が美しいと思う結果を得られるなら、photographでも pictureでも構わぬではないかという人もいるだろう。

ただ、そうやって結果ばかりに気を取られて無制限に加工を行う内に、わざわざ苦労して写真を撮って加工しなくても、AIが生成した画像を現実に近付けた方が良いのではないかという結論に達してしまいそうな気もするのだ。

そして、AIが生成したpictureが台頭してくる分だけ、私の愛するphotographは間違いなくその規模を縮小してゆくのだろう。

誰もがスマートフォンで何気なく写真を撮る時代にはなっているけれど、本当の意味での写真というものはひっそりと隅に押しやられ、終焉を迎えようとしているのかもしれない。