叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

空舟


空舟という訓えが好きで時々思い出しているのだが、出典を忘れてしまって、インターネットで探しても出てこない。

中国の古典にあったような気がするが、今更出典をあたりたくなったのは、その訓えの解釈について、私の中で変化が生まれて来たからだ。

そもそもの内容としては、湖で舟を漕いでいる時に、他の舟が近付いて来たとする、それに人が乗っていたら、相手が避けることを期待してしまうし、もしそのままぶつかってくれば喧嘩になるけれど、それが空の舟だったとしたら、自分から避けるしかないし、ぶつかったとしても腹は立たぬでしょう、という話だ。

最初はアンガーマネジメントの一種のつもりで、相手に何を言われても所詮は空舟だと思って受け流せという意味で捉えていたのが、最近は違うような気がして来た。

相手のことを無理矢理空舟だと思い込もうとするのは、含蓄ある中国の古典にしてはあまりにも表面的過ぎる気がするのだ。

つまり、相手の存在を云々するのではなく、寧ろ自らが空舟になってふらふらと流れてゆけば、相手の舟から避けてくれるし、不必要な敵意を向けられることもないという訳である。

この、自らが空舟になるということ自体が、心を空にするとか、己を虚しくするとか、東洋哲学でよく語られる思想に通じるものがあって、やはり解釈としてはこちらの方が嵌る気がする。

私自身は、自らを空舟にするということと、自らの意思を放棄するということの違いをまだ考えている最中で、もう少し精神修養をする必要がありそうだ。

己を虚しくすることと、自分の意思を持たず、誰かの言うが侭になることは明らかに違うはずだが、この辺りの区別はどのようしてつけるべきなのだろうか。

なかなか難しい人生の課題である。