叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

ライカ元年




本当はコロナ元年としたいところ、これは元年を謳うようなものでもないので止めておく。


コロナに罹ったあと、これまでの生活が一変してしまったという気もするが、罹らなかった未来というものは私には存在しないのだから、今更何を考えても仕様のないことだ。


しかも、喉元過ぎれば何とやらを体現しているような私だから、いつまでもそんな事に拘っているような神経も、実は持ち合わせていない。


さて、前置きが長くなったがライカのこと。


これは、元年を記念して誌しておこうと思う。


私が購入したライカは、なぜかフィルムライカ、それも完全機械式で露出計すら付いていないシルバーボディのM-A。


2021年7月、大阪のカメラ店で購入した。


無論、中古である。


レンズは少し遅れて購入した、ズミクロン50mmの3rd。


当初、シルバーボディに合わせてフォクトレンダーのノクトンを使っていたが、これでは真にライカを使っているとは言えないと思い、手が届く範囲のぎりぎりの価格で手に入るズミクロンを購入した。


奇妙なことに、ライカのカメラを買った人は、ライカを手に入れたこと対する意義付けをしなければならないような、不思議な衝動に駆られるらしい。


高い割に、といっては失礼だが、一般的なカメラに求められる、例えば速くて正確なオートフォーカス機能とか、強力な手振れ補正機能とか、そういうものをライカは持たない。


それでも高いお金を出してライカを買う以上、性能や価格という基準では表現出来ない、極めて言語化の難しいライカの魅力を、無理矢理にでも掘り起こして、自らを納得させたいというのが、その衝動の原因だろう。


私としても、そんな思いがどこかにあって、これを購入してからライカを使う理由を、何度かblogに書いたような気がする。


ただ、購入して半年、肌身離さず持ち歩いて、色々な場面を写真に切り取って思うのは、どこまでもシンプルに私の一部となって写真を撮らせてくれるこのカメラが、とても魅力的であるということだけだ。


写真を撮る人間ならば、写真を撮ることだけに集中出来るカメラを手に入れることを何よりも願うものだが、私はそういうカメラに、やっと出会うことが出来た気がする。


まだ半年しか経っていないから、先々のことは分からないけれども、少なくとも現時点では、これまで使ってきたカメラとは違う何かをライカには感じているのだ。


懸念があるとすれば、一体いつまでフィルムを現実的な価格で使い続けられるかということで、むしろこちらの方が心配だったりもする。


もしフィルムが使えなくなったら、写真そのものを止めてしまおうかなんて、そこまで考えてしまうぐらい、良いカメラと出会ったと思っている。


その時は、いよいよデジタルライカかな。