句は所詮排出物でしかないと、誰か俳人が言っていたような気がしましたけど、誰だったかしらん。
その人としては、そんな排出物を後生大事にしたところで何の意味があろうか、というような文脈だったはずですが、もう一寸穿った見方をして、その人が何を食べたか、何を飲んだかによって、排出物の中身も変わると考えると、これはなかなか。
インプットとアウトプットが無関係ではあり得ないことを考えると、排出物を見ればその人の為人が分かるというものです。
私としても、これから何を見てゆこうか、何を聞いて、何を感じてゆこうか、ということ、其れを踏まえてどのように物事を表現してゆこうかということを、少しながら考えています。