叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

春の海


半年ぶりのポートレート

お相手がばたこさんだったからそうそう酷いことにはなるまいとは思いつつ、やはり久しぶりの撮影に対しては多少の不安を拭いきれずにいたのだが、蓋を開けてみれば全くの杞憂だった。

春の光の柔らかさ、ばたこさんの柔らかさ、そして暴風が少しばかりのアクセントとして加わった、とても良い写真になったと思う。

私は自分が撮った写真については自賛を惜しまない。

万人にとって良い写真であるかは分からないけれど、私が好きな人を好きな場所で撮っているのだから、これで嫌いな写真が出てくればそれはどこかにウソがあるということだろう。

これからも、自分が心から愉しい思える環境で写真を撮り続けたい。


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落差


今日は何故だろうな、ゆらゆらと電車に揺られて湘南まで来ている。

昨日、もう日記を書き終えてしまってからSNSでやり取りのあった人と花見がてら写真を撮りに行った。

その人もフィルムカメラで写真を撮る人で、撮る写真は私とは全く違うのだけれど、それゆえに撮り方やら機材やらについて尋ねてみたい気持ちが抑えられず、お会いする機会を作ってもらったのだ。

実際にお会いしてみると、機材や撮る写真こそ私とは違っていたものの、写真に対する考え方とか撮り方が比較的似通っていて、実に愉快な時間を過ごすことができた。

ただ、その愉快さの反動でどうも今日は精神の調子がよろしくなく、せいぜい近場の常滑りんくうビーチあたりに海を眺めにゆこうと外に出たのに、何故かまたしても江ノ島までやってきたというわけである。

この時折やってくる放浪癖の、最近はあまりなかったのだが、今日はどうにも押さえつけることができなかった。

せっかく江ノ島まで来たのに天気もあまりよろしくなく、どうもこのまま帰るのが悔しかったので今日明日、そして明後日までの湘南滞在を決め込んだわけである。

自らの心の弱さが嫌になってしまうが、それでも女遊びやギャンブルに使うよりはまだ良いではないかと、今は自分を慰めている。

限界


今日も非稼働である。

というか、今週はずっと非稼働で、月曜日から水曜日までは私も出勤したものの、ラインが動かない中だらだら仕事をするのも嫌になってしまって、今日明日はなけなしの有休を使って休むことにした。

これで4月中はもう休むことができないわけだが、5月まであと営業日基準で10日程度、マァ、何とかなるだろう。

それにしても、やることはないけど出勤はしてもいいよ、やることはないけどね、できれば休んでねという、半強制のような形でせっかくの有休を使わねばならぬというのはなんとも口惜しく、これほどに非稼働が長引くのなら何らかの救済措置を取ってもらいたいというのが偽らざる心境である。

一体いつまでこの宙ぶらりんな状況が続くのか、手首の静養の為には良い機会にはなっているものの、精神的にはあまりよろしくない。

ただのんべんだらりと過ごすのも勿体ないからどこかへ出掛けたいという思いもあるけれど、私の大好きな湘南も京都もつい先日行ったばかりで、さすがにこの短いスパンの中で行く気にはなれずにいる。

ただ、今日は愉快な出会いもあって、その人とのんびり散歩をしながら写真を撮ったり撮らなかったりした。

明日以降も、こんなふうにのんびりしようかと思っているのだが、明日の私がどのように考えているのかは分からない。

さて、どうするかな。

移住


神奈川に、それも鎌倉とか湘南とかの、海にサンダル履きで歩いて行けるような場所に住みたい。

今回、湘南やら逗子やらを彷徨いて心から思った。

私はとにかく海が好きなのだ。

ただ、海ならばどこでも良いというわけではなく、やはりあの湘南あたりの、観光客でごった返しつつも地元の人たちもそれぞれの生活を愉しんでいるような場所が良い。

こういう場所に住むことができれば、私の休日はどんなにか充実することだろう。

何の予定もない休日に、いつまでも部屋で寝ているようなツマラナイことはせず、カメラを持ってふらりと海に出掛けて海を謳歌する人たちを写真に収めたり、地元の顔見知りと立ち話をしてその人たちのポートレートを撮ったり。

あれだけ観光客が多いところで日常を送るとなれば、当然それなりの苦労もあるのだろうが、例えば大都会の息が詰まるような喧騒とはまた一味違う気がするし、何よりも私の大好きな海が直ぐそこにあるというだけで、私の人生が今より豊かなものになるであろうことは疑いようがない。

トヨタ期間工を満了したら、次はあの辺りに働き口を見つけて暮らしてみたいと、かなり本気で考えている。

被写体


人間そのものを撮る時はこだわらないが、写真のワンポイントとして人間を構図の中に入れる時は、その人の佇まいやファッションについてこだわるようにしている。

背筋をピンと伸ばした人が良いとか、颯爽と歩いている人が良いとか、派手な色の格好をしている人が良いとか、私なりの基準があって、やはりとぼとぼ歩くずんだれおじさんよりは、颯爽と歩くロングコートの女性のほうが被写体としては魅力的なのだ。

そして最近は、他人にばかりそれを求めるのはどうかと思うようになって、私も見知らぬ誰かの被写体になれるように真っ赤なジャケットを着て街を歩いている。

顔の造作や所作はなかなか変えられないけれど、せめて服装ぐらいは派手にして、もしよろしければ写真のアクセントとして使ってくださいという訳だ。

ただ、これは私のようなスナップを撮る人間にとってはなかなか勇気のいる行為で、何かトラブルがあった際にあの赤い人に撮られましたと名指しされかねない。

だから、これまで以上に撮影には気を遣わなければならないのだが、これは今まで他人を勝手に撮ってきた私のせめてもの罪滅ぼしなのだ。

私が写り込んだスナップ写真が誰かのSNSに投稿されるその日まで、このくだらない罪滅ぼしを続けてゆくつもりである。

単純化


やはり、ポートレートを撮るのは愉しい。

オジサンが綺麗な女性を撮って鼻の下を伸ばしているだけなのではないかとの指摘に対して、それを全面的に否定できないのは悲しいことだけれど、決してそれだけではない愉しさがあるいうこともまた事実である。

特に私の場合、誰彼構わず撮ることはせず特定の人を何回も撮り続けているから、撮影を重ねるごとにモデルとのコミニュケーションも深くなって、結果はともあれ撮影そのものを愉しいと感じるようになっているのだ。

そもそも、私からすれば美しい女性を撮ることは美しい花を撮ることと同義で、時々ポートレート界隈で発生するような男女のすったもんだに繋がるような感情をモデルに対して抱くことはないし、女性に対して美しさを感じるのは単純な男性の性というもので、これにいちいち理由をつける必要はないと思う。

ポートレートに対して作品性とか芸術性を云々する人の中には、女性ばかりではなく男性も撮れば良いという人もいるが、自分が美しいと思えないものを撮って何が面白いのだと私は声を大にして言いたい。

だから、いつか私がポートレートを撮らなくなる日が来るとすれば、それは私の中の男性的なところが全く枯れてしまったということになるのだろう。

それはそれで、悲しいことではないか。

満腹


桜には縁がないと思っていた今年の春だったが、なんと4日連続で花見をしている。

今日は名古屋の鶴舞公園と山崎川沿いで桜を眺めた。

贅沢な話ではあるが、正直もう桜は満腹であまり写真を撮ることもせず、それよりも道中で見つけたカメラで見つけたライカI型のほうが印象に残っている。

I型は私が使っているII型の先輩にあたる機種で、レンズ交換もできず、距離計もついていない。

いつかはこのI型を買って、モノクロ専用機種にしようと画策しているのだが、ひょんなところで実に綺麗で価格も相場からするとかなりお値打ちの個体を見つけてしまった。

店主のおじちゃんともライカ話が弾んでしまって、殆ど購入してしまいそうになったのだが、絞りの操作が渋かったのと、レリーズボタンが明らかに取り替えられていたから何とか購入を思いとどまった。

でもあそこにあることを知ってしまったから、遠からず買いましたという日記を書くことになりそうな気もする。

散歩も考えなしにやるものではないな。