叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

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祇園祭をぶらついて写真を撮っていた時、またしても外国人に声を掛けられた。

困ったことに今回は英語オンリーの御仁で、私が持っていたバルナックについてウンタラカンタラ言ってたのは何とか聞き取れたのだが、その詳細な内容までは恥ずかしながら理解出来なかった。

分かりもしないのに適当に相槌を打ち続けるわけにもいかないので、ソーリー、アイキャンノットスピークイングリッシュと言うと、ゴメンネと言って去っていった。

この前のM2ブラックペイントの御仁といい、ライカを持っているとやたらフレンドリーに話し掛けられるが、ライカというブランドのカメラには、やはり写真機というを枠を超えた人を惹きつける力があるのだろう。

その力の源泉は何かということを少し考えてみたのだが、物凄く俗な言い方をすれば、みんな違ってみんな良いという価値観をライカのカメラが体現しているから、という結論に達した。

例えば、100年近く前に登場したバルナックライカと最新のデジタルカメラであるM11、性能的な面にだけ目を向ければ、大きな開きがあるわけだが、ライカ愛する人はその差を持って単純に優劣をつけることをしない。

表面的な性能差によってカメラの優劣は決められるものではないし、寧ろそのような議論をすること自体が野暮であると言わんばかりに、各世代のカメラには明確な個性が備わっていて、その強烈な個性を愛する人たちが世界中にいる。

日本のカメラのように、ただ高性能なもの、最新のものが偉いとされ、新機種が登場すればそれまでの機種はただの旧機種に成り下がるような世界観が、ライカのカメラには通用しないのだ。

イカのどの部分が心の琴線に触れたのかについては人によって異なるだろうが、少なくとも性能至上主義ではない自らの主義に従ってライカのカメラを選んだという一点において、ライカ使いは年齢や人種、国境すらも超越した仲間意識を感じている気がする。

この点について、いつかライカ使いの人たちと語り明かしてみたいと思っているのだが、今のところは相手がいないから今日もひとり語りをしてしまったけれど、これもライカによって与えられた功徳と思えば、なかなかどうして、やはりライカ沼は深い。