私は雑草の写真を撮ります。
Twitterには書いたのですが、むらくさというハンドルネームは、雑草が茂る草むら、叢草から来ています。
雑草といえば、昭和天皇が世の中に雑草という名の植物は無いという植物学者の牧野富太郎の言葉を引用して、人間の勝手で、それぞれが自由に営んでいる生を蔑ろにすることが無い様にと、侍従を諭されたというエピソードが有名です。
其々の生命を尊重し慈しむという点で、胸に留めておくべきお言葉ではあるのですが、私は別に、雑草を慈しむとか、雑草に肩入れするとか、そういうつもりで雑草の写真を撮ってはおりません。
ましてや、私だけが感じるような雑草の価値を認めているような訳でもありません。
では何故私が、雑草の写真を撮るのかといえば、それはおそらく、仲間意識のようなものなのでしょう。
私が私として、例え無価値であったとしても、誰かに認識して貰えなかったとしても、慈しんで貰えなかったとしても、そこに存在し続けるしか無い哀しさやその他諸々の感情を、雑草に投影しているのです。
昭和天皇のお言葉は有難いけれど、もし、雑草が必要以上に持て囃されたり、何か価値のあるような存在になってしまうと、私は身の置き所を失ってしまいます。
いつか、私自身に自尊心のようなものが芽生えて、自らの価値を少しでも認めることが出来る様になる時が来たら、私は雑草を撮ることを止めてしまうのでしょうか。
そんな日が来るとは、到底思えないのですけれど。