叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

葬儀屋になる

期間工は、ひたすら、ただの作業するだけの人間である。


遠い、遠いところにエンドユーザーがいたとしても、その人たちからのレスポンスがあることは当然ないし、せいぜい街を走る車を見て自己満足に浸るのが関の山。


それでも、ただお金を稼ぐために働くということであれば、とてもありがたい仕事だと思いはするけれど。


何も考えず、言われた通りにひたすら作業をして、進捗を少しぐらい気にすればよい。


これは期間工に限らず、作業者として工場で働く人は殆どがそうだろうけれど。


そして、その稼いだお金で家族を養えるのであれば、自分がやりたりことが出来るのであれば、それがその人にとっての生きる目的に適うのであれば、そこには何の問題もない。


ただ、私に関しては、稼いだお金が、旅に消える、酒に消える、カメラに消える。


それだけ、それだけ。


期間工を始めた頃は、自由になるお金が嬉しくて、いろいろ使っていたが、最近はどうも、ね。


どこかで虚しいと感じながら、今のうちはそれでも良いのだと思い込もうとしていたのだが、それも限界らしい。


あと何年、この生活が続けられるわけでもない。


お金を稼ぐことの意義が、私が生きるためと、もうひとつぐらい、プラスαの意義が欲しくてたまらない。


それは、生きることの意義にも繋がってくるだろうから。


本当は、彼女とか奥さんとか子どもとか、そういう具体的な他者にその意義を求めたいのだけれど、そっちの方面はほとんど諦めてしまっていて。


30歳手前の私がいえば笑われるのだけれど、こればかり、今まで女性とまともにお付き合いをしたことがない本人の予感の方が正しいと思う。


ご縁には、大いに期待しているけれど。


だとすれば、生きることの意義は仕事に求めるしかないと思っていて、多分筋違いだろうし、甘えだとも思うけれど、それでも、それに縋るしかないのです。


まぁ、なぜ葬儀屋なのかということだけれど。


前職で少し齧ったことがあるというのもあるが、やはり、いろんな人の死に様を通して、生き方を考え続けたいからだと思う。


人の死を、自らの自己実現に利用しようなんて罰当たりもいいところだけど、そういう甘さを頭から否定されるような経験が出来れば、それはそれで良いと思う。


当然、人との関わりの中で、感謝されたいし、感謝したいという思いもある。


どうせ仕事人間なるのだったら、人と関わりたいね。


そんなわけで、期間工生活は長くは続かない。


ただ生きるために仕事をしている今の生活を、いつか愉しく振り返ることが出来ますように。