叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

執着を求める旅


三十歳になりました。


せっかくの節目ですから、軽く所感をば述べます。


まず、二十代を振り返ってみますと、まさに心身共に満身創痍という言葉がぴったりでした。


網膜は剥がれる、事故で血塗れになる、鬱病に片足を突っ込むなど、いろいろなことがありました。


しかし、その度に致命傷は躱して、今生きておられるのは、全く私の悪運の強さのおかげというしかありません。


そして、おそらくその悪運は、常日頃の神社通いによって得た、神仏のご加護がもたらしてくれたものでしょう。


本当はその神仏のご加護、酷い出来事に遭遇する前に発揮して頂きたかったのですが、もしそれがなければ、2回ぐらいは死んでいたかもしれませんので、あまり文句も言えません。


さて、そういう二十代は、願わざる、望まざる、求めざるという生き方ばかりしてきました。


儘ならない日々の中で、願うから、望むから、求めるから、その理想と現実との乖離に人は苦悩することに気づいて、私はその感情を放棄してしまおう、というふうに考えたのです。


もともと、明確な目的意識とか、将来の目標とかを持って生きる性質の人間ではありませんでしたし、何かに執着するタイプでもありませんでしたから、この生き方をするほうがとてもしっくりきていました。


ただ、三十代は、もう少し明確に、何かに執着して生きてみたいと思っています。


執着の少ないことは、昔から良くも悪くも私の特質のひとつで、趣味にしても何にしても、一時期はそれが私の代名詞になるほどにのめり込んだとしても、環境が変われば直ぐにそれを打ち棄ててしまうことが出来るのです。


しかし、何に対しても執着のない人間には何の魅力もないと、最近は思い始めました。


ナニモノかに対する強烈な執着心を持ちながらも、いつまで生きてもよし、いつ死んでもよしという境地に至ってこそ、人間としての美しさを発揮出来ると思うのです。


ですから、三十代は、執着出来るナニモノかに出会う為の旅をしようと思います。


といっても、今の時点では薄ぼんやりと考えているだけの話で、明確な方向性もありません。


ただひとつやっていきたいことは、人との対話です。


おいキサマ、私は何に執着していると思う、なんてことを色々な人に聞きながら、改めて自分の中にある執着心を掘り起こしていき、多少無理があったとしても、それを本気にして向き合ってみることぐらいしか、今の私には思い付きません。


誰かと話すことで本当の自分を発見するという、基本中の基本のようなことを、殊更意識してやっていかなければ、私はずうっと今のまま、薄ぼんやりのまま死んでしまうような気がしています。


三十年生きてきて、今更こんな自分探しのようなことを目標に掲げるようだから、恋人も出来ないのでしょうけど、これが私です。


こればかりは、どうも。



我がこと語らず暮れた頬が熱い




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