叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

信条


今日は同僚の送別会があったのだけれど、祖母の体調不良を理由に欠席した。

直ぐに死んでしまうような言い方をしたのは、半分ウソのそうな、半分ホントのような、気分が乗らなかったのは事実で、マァ勘弁して貰いたい。

ただ、最早治療をするような段階にはなく、緩和ケアをしているということは事実で、それが何を意味しているのか、余り前向きな話ではないのだろうけれど、命の期限が決まってしまったわけではないから、今はただ見守ることしか出来ない。

徒に命の日数を伸ばすことだけが大事だとは思わないから、祖母が少しでも楽になるのであればそれが一番良いと思う。

近しい家族の死に直面するのは父方の祖父に次いで今回が二回目だが、如何せん当時は中学生だったし、祖父は病気の影響で、長い間コミニュケーションが取れなくなってたから、あまり悲しみを感じなかった。

ただ、今回はどうだろう。

三十になるまでずっと世話になってきて、去年の年末にも会っていて、会話も交わして、そして何より、本人もまだまだ意識がはっきりしていて。

その時のことを少し想像するだけで、どうしようもなく悲しくなってしまう。

私は、個人の信条としては、人間いつ野垂れ死んでも良いと思っているし、それを平然として受け入れる心構えを常にしておくべきだと思っているが、家族のことになるとそう割り切れるものではないらしい。

だから、とても悲しいことが起ころうとしていることについて、さらに私がそれを悲しいと素直に感じていることについて、自分の信条は別にして、書いておかねばならぬと思う。

吐露する誰かのいない私は、書くことでしか自分の気持ちを整理することが出来ないのだから。