叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

功徳


午前中は、読書をして過ごした。

梅棹忠夫の女と文明という本、私はまだ結婚する予定はないけれど、もしそのような女性が現れたならば、一度読んでもらいたいと思った。

もし、本は少しも読みませんというような人ならば、その時点でその人とはあまり合わないような気がする。

全く本を読まぬ人というのは、一体どのようにして自分にとって新しい価値観に触れているのだろうか。

テレビや新聞で得られるのは、情報の断片である。

情報の断片を自分の中に取り入れつつ、人は思考し行動する訳だが、それが独善に陥らぬようにするには、他人が情報の断片をどの様に捉えるのかを知る必要があるし、それこそが様々な価値観に触れるということだ。

生の人間と接することも大切だが、人はどうしても似た価値観の人間と連みがちだし、余程の親交が無ければお互いの価値観を開陳し合う機会など無い。

他人の価値観に触れるという点では、やはり本を読むのが一番早いし、年齢性別国籍を問わず、様々な価値観に触れることが出来る。

女と文明については、また改めて書くことにする。

昼からはいつものジョギングをしたが、最初飛ばし過ぎて3kmも走れなかった。

少し休憩をして、また5km走る。

合計で8km。

今日は少し写真を撮ろうと思ってGRを持ち出したが、思わぬところで彼岸花が咲いていたり、美しい夕焼けが出現したり、シャッターチャンスには事欠かなかった。

正直、GR程度の重さであってもジョギングには邪魔くさいのだが、こういう事があるから家に置いて行く気にはならないのだ。

今日撮った写真については、また纏めようと思う。

不眠


昨日は仕事を終えてから少しジョギングをして、もう時間も遅かったものだから、夕食を食べずに寝たら夜中に目が覚めてしまった。

今日の仕事の為に何とか眠ろうとしたが、お腹が空いて眠れなかったので、結局コンビニで春雨スープとサラダを買って来て食べる羽目になった。

痩せる為にジョギングをしている訳ではないのだが、最近は徐々に体重が落ちてきていて、それが愉しくて余計なことをしてしまった。

一食抜いたぐらいでは大して変わるまいし、要らぬ食事制限をして健康を害してしまっては本末転倒である。

眠るのが夜中になってしまったので、眠たい目を擦りながら仕事をしたのだが、楽な仕事で助かった。

別に生産が多いと言う訳ではないから、緩々と作業をしながら一日を過ごした。

全てが残業時間として計算される出勤だったから、日給は10,000円を超えるのではないか。

することもない休日、綺麗に晴れていたのが少し悔しかったけれど、来週は愉しみな予定もあるから、明日まではぢっとしていよう。

的中


他者へ関心がないということについては数日前の日記に書いたが、まさかその事についてまだ出会って数ヶ月の人間に指摘されるとは思わなかった。

本人は冗談のつもりかもしれないけれど、不意の指摘にドキリとした。

別に私は人嫌いではないし、なにがなんでも孤独でなければならないという訳でもなく、むしろ普段は愛想良く会話をする方だから、この様なことは言われないのだ。

惜しむらくは、その指摘をした人間が男だったということで、これが女性だったらそのまま惚れてしまうところだったと思う。

自らの本質を他人に言い当てられることぐらい、喜ばしいことはない。

昔から他人に容喙されることを好まなかった私は、どうでも良いこと以外は他人に相談したり、頼ったりということをしなかった。

深いコミュニケーションを取らないから、誰かと喜びを分かち合ったり、誰かと悲しみを共有したり、そういう体験もあまりしていない。

知らない誰かが不幸になれば良いとも思わないけれど、知らない誰かが涙を流していることが耐えらないという様な精神も持ち合わせていない。

そういう心の動きが積み重なって、最早他者に関心を持てぬ様になってしまった気がする。

誰からも何も言って欲しくないのなら、自らも黙りを決め込まなければウソになるだろう。

自分がそれで良ければ、それで良いのだ。

習慣


最近、残業が出来るようになってきた。

稼ぐ為には非常に有難いことなのだが、今度は定期的なジョギングがやりづらくなってしまった。

19時まで仕事をして、そこからご飯を食べて、洗濯をして、風呂に入ってをしていると、どうしても眠る時間が遅くなってしまう。

ただ、平日は走らぬ、土日しか走らぬをやっていると、週に2日しか走らぬことになるので、幾ら趣味のジョギングだとしてもそれど回数が少な過ぎる。

それで、多少気合いを入れるつもりで昨日夜から少しだけ走ってみたのだが、5kmぐらいなら翌日に疲労は残らぬことに気付いた。

体調を見ながらちびちび走って、最終的にはマラソンに出てみようかという気持ちすら湧いてきた。

50kmの距離を1日で歩けることが分かったのだから、今度はそれを走ってやれば良いだけで、掛かる時間は半分ぐらいで済むはずなのだ。

先ずは30kmを無理なく走れるように、これから少しずつ距離を伸ばしてゆこう。

機嫌


久方ぶりに操作する設備が壊れたので、社員を呼んで修理してもらったのだが、案の定不機嫌になる。

この不機嫌になられるというのが仕事を遂行する上では一番面倒で、本当は機械の修理は社員の仕事なのだからさっさとやれと言いたいのだが、それを口に出す訳にもいかないから、いちいち気を遣わねばならない。

機嫌が良い時との落差が大き過ぎで、普段は無愛想でも構わないから、ある程度一定のテンションで人間と接して欲しいのだ。

私の過失から叱られてしまうというのは十分に納得出来るし、反省もするのだが、ただただ不機嫌になられても私にはどうすることも出来ない。

ただ生産するというだけなら、正直期間工が居れば事足りる職場で、高い給料と正職員という立場を保障されているわけだから、この程度は笑顔でどんどんやってもらはねば困る。

その責任が嫌なら期間工になれば良いのだし、私が機械を壊すことが気に食わぬなら自分で動かせば良いのだ。

売上に対する責任がある訳でもなく、人事労務に関する苦労がある訳でもなく、普段からのんびりと仕事をやっている人間に限ってそういう時に不機嫌になる。

腹が立ったので、5kmほどジョギングをした。

私自身もまだ修養が足らぬ。

空舟


空舟という訓えが好きで時々思い出しているのだが、出典を忘れてしまって、インターネットで探しても出てこない。

中国の古典にあったような気がするが、今更出典をあたりたくなったのは、その訓えの解釈について、私の中で変化が生まれて来たからだ。

そもそもの内容としては、湖で舟を漕いでいる時に、他の舟が近付いて来たとする、それに人が乗っていたら、相手が避けることを期待してしまうし、もしそのままぶつかってくれば喧嘩になるけれど、それが空の舟だったとしたら、自分から避けるしかないし、ぶつかったとしても腹は立たぬでしょう、という話だ。

最初はアンガーマネジメントの一種のつもりで、相手に何を言われても所詮は空舟だと思って受け流せという意味で捉えていたのが、最近は違うような気がして来た。

相手のことを無理矢理空舟だと思い込もうとするのは、含蓄ある中国の古典にしてはあまりにも表面的過ぎる気がするのだ。

つまり、相手の存在を云々するのではなく、寧ろ自らが空舟になってふらふらと流れてゆけば、相手の舟から避けてくれるし、不必要な敵意を向けられることもないという訳である。

この、自らが空舟になるということ自体が、心を空にするとか、己を虚しくするとか、東洋哲学でよく語られる思想に通じるものがあって、やはり解釈としてはこちらの方が嵌る気がする。

私自身は、自らを空舟にするということと、自らの意思を放棄するということの違いをまだ考えている最中で、もう少し精神修養をする必要がありそうだ。

己を虚しくすることと、自分の意思を持たず、誰かの言うが侭になることは明らかに違うはずだが、この辺りの区別はどのようしてつけるべきなのだろうか。

なかなか難しい人生の課題である。

関心


私は他者への関心が薄い。

誰某と誰某の間に繋がりがあるとか、誰某が何を言っていたとか、そういう事には全く興味が無いし、何処か誰かが幸せに浸っていようが、絶望に打ち拉がれていようが、野垂れ死んでいようが気にするつもりもない。

自分が他人に対して無関心を決め込む以上は、私自身も他人からそのような扱いを受けて然るべきなのだが、人間社会というのは上手く出来ていて、最低限のコミニュケーションさえ取れていれば、決定的に迫害される事態にはならない。

その代わり、誰とも仲良くはなれないけれど。

そういえば、大学生の頃は少し政治に興味があって、そういう人脈を作りつつ、そちらの世界に片足を突っ込んだこともあったけれど、あんなものは他人に興味の無い人間にはやれない商売だと思う。

後は野となれ山となれというような人間が政治を志してしまったら、世の中は混沌に陥ってしまうだろうから、これは若き日の気の迷いとして、心に仕舞っておこう。

他人に対して無関心な生き方が今後プラスの方向に働くとは到底思えないけれど、この歳になると最早他者との距離感をまともに測ることすら出来なくなっている。