叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

天佑


風は強かったけれど、雨は降らなかった。

断じて行えば鬼神も之を避くというから、江ノ島に行って帰ってくることも出来たかもしれない。

ただ、過去のことはもう言うまい。

今ここにいるのは、江ノ島に行かなかった私でしかないのだから。  

それでも、今日はうだうだ部屋で無聊をかこっていた訳では無く、いそいそとポートレートを撮りに行った。

モデルをお願いしたのは、ちょうどTwitterで撮影の募集をされていた美味さん。

大風と大雨を想定して、商店街のアーケードと薄暗い神社での撮影を想定していたけれど、先に書いた通りのお天気だったから、ストリートスナップを撮りながらうろうろした。

また写真は載せるけれど、かなりの量のシチュエーションで撮影出来たので非常に愉快だった。

撮影が終わった後は、世界の山ちゃんハイボールを飲みながら、ひとり打ち上げと洒落込んだけれど、意外だったのは、それは愉快ではなかった。

早安易な外食に対して、余り魅力を感じなくなってしまったらしい。

安上がりで、良いことだ。

颱風


夜勤を終えて、惰性のように10km走った。

多少疲れるけれど、習慣化してしまえば何ということもないだろう。

日頃から準備しておけば、もしマラソンに出ようと思い立った時に直ぐに対応出来る。

その後は直ぐに眠って、もし昼前に起きられれば、久しぶりに名古屋に出て味仙の台湾ラーメンでも食べようかと思ったが、目が覚めたのはもう15時過ぎだった。

つまらぬ休日である。

それにしても、本当に嫌なところで颱風が来るもので、江ノ島行きは無しになった。

今日はまだ雨すら降っていないし、日曜日もなんとかなりそうな気がするが、帰りの新幹線が深夜になる予定だったので、万が一を考えてやめておいた。
 
先月の京都ぶりの遠出で、ポートレートも撮る予定だったのに非常に残念である。

代わりと言ってはなんだが、もし明日大荒れにならなければの条件付きで、ポートレートの約束を取り付けた。

近場での撮影なら、電車が止まってもタクシーで帰ることが出来る。

撮影が終わったら手羽先でも食べよう。

愉快


走ることが、愉しくなってきている。

6月あたりからぼちぼち走り始めて、相変わらずペースは1km6分のゆっくりとしたものではあるが、走ると気分がすっきりするし、体重も少しずつ落ちて来ているし、良いことづくめである。

体重の減少については、お菓子を食わぬとか、炭水化物を減らすとか、若干の食事制限もやっているからそのお陰もあるのだが、要は消費カロリーが摂取カロリーを上回れば良い訳で、ジョギングが役に立っていることは疑いようも無い。

それよりも愉快なのが、自らの脚でどんどん遠くまで行けるということを、徒歩より強く実感出来ることだ。

徒歩では1時間に5kmしか進めないが、走れば10kmも進める訳で、10時間走り続ける体力さえ持っていれば、1日で京都まで行ける計算になる。

100kmのウルトラマラソンの完走タイムが12時間程度ということを考えれば、強ち無理な話でも無いだろう。

夏の京都行で得た100kmという距離の実感と、それを12時間程度で走破する人間がいるという驚きと、私も鍛えればその領域に到達出来るかもしれないという予感と、それをやってみたいとすら考えている空恐ろしさと。

軽い気持ちで始めたジョギングが、ここまで様々な感情を呼び覚ましてくれるとは思っていなかったので、自分で自分が可笑しくなってしまった。

もしこの感情に始末をつけられなかったとしても、やっていて悪いことではないのだから、ぼちぼち続けてゆこうとは思うけれど、ジョギングにおけるひとつの心の動きとして書き記した。

読書


梅棹忠夫の女と文明という本を読んだ。

妻無用論から始まって、家事整理学言論、女性の社会進出にまで言及された本である。

専業主婦という言葉が、夫の収入ではひとつの家庭を支え切れなくなっているという、実に切実な理由から死語になりつつある昨今の現状を全く違う要因からこの本は予見している。

先ず著者は、家事は極力簡略化せよ、そして完璧を求めるなと主張する。

家事における労働の多くは、多くの部分で自動化され、外注することも容易になっているのだから、それを大いに活用して家事の時間を削減するべきだし、やれば尚良いけれど、やらなくても良いようなことはどんどん手を抜いて止めてしまえば良いと言う。

料理はスーパーのお惣菜でも良いし、食器を洗うのが面倒であれば使い捨てのものを使えば良い、掃除も適当で良いし、ハウスキーパーを雇っても良いのだ。

そうして、女性が家事労働に割く時間が減らすことが出来れば必然的に余剰エネルギーが生じ、そのエネルギーを社会的な生産活動に回すことが出来る。

今後はますます情報化社会が進むだらうから、男性に有利な筋肉や体力を必要とする工業的な労働が減り、知力や感性を必要とする労働が増えてゆくわけで、女性の活躍出来る場所もどんどん増えるはずである。

情報産業に携わる場合、男女の能力の差は殆ど無く、そうなれば男性と女性の社会的な同質化現象が進み、次第に専業主婦という、家庭内でしか通用しないようなせせこましい存在は消えてしまうとまで著者は述べている。

本当の意味でこのような世界を実現する為には、著者が主張するところの、家事の少ない家庭こそが文化的に進歩している家庭だという意識を男女が共有する必要があるし、女性の社会進出を阻む社会的、心理的な障壁はますます取り除かれねばならない。

その前途はまだまだ多難なものになるだろうが、その現実の世知辛さは一度埒外に置いて、私がもし結婚したいと思う女性が現れたら、この本を一読してもらって感想を語り合いたいと思った。

これから2人で築いてゆく家庭について、表面的な理想の家庭論を数百度戦わせるよりも、より本質的な議論が出来そうな気がする。

それにしても、家事の手抜きを推奨する話から女性の社会進出や今後の世界の社会構造にまで話を波及させてしまうのだから、学者というのは本当に凄いと思う。

久しぶりに、面白い本に出会った。
  

彼岸花


日が短くなっていることは感じていたけれど、まだまだ夏を引き摺っていて、彼岸花を見つけた時には思わず叫んでしまった。

そういえば、もう9月も中旬なのだった。


全く長閑な、代わり映えのしない景色の中に、夕暮れと季節が色を添えてくれる。



足を進めていると、また彼岸花を見つけた。

先程の場所には一輪しか咲いていなかったのに、ここではもう群生と呼べるほどに咲いている。

アップで撮ったり、背景を思い切り暗くしたり、思い付く限りの撮り方を試して見る。






最近は、被写体を目掛けて写真を撮りに行くということを全くしておらず、自分の足で行ける範囲で、撮れるものだけを撮っている。

それでも、被写体はどこにでも転がっている。

空や雲ばかりになりがちだが、それが今の私の生活の真実だと思えば、写真によって私を日常を記録するという目的は果たせているのではないだろうか。




宿題


実は金曜日迄の日記を書き溜めてある。

仕事をしながらふと思いついたことを見出しだけ書いておいて、土日の暇な時間に纏めておくのだ。

本当はそういうのを日記とは言わないだろうけれど、今週は夜勤だし、いちいち取り上げて書くようなことあるとは思われないから、いつも少しズルをしている。

そう考えると、小学生の夏休みの宿題の定番である毎日絵日記などは苦行のようだった。

ただでさえ退屈な夏休みに、そういちいち書くことがあろうとは思われず、あの宿題の意図は日々の気付きを大切にしなさいということなのか、日記に書けるような体験をしなさいということなのか。

もう小学生の頃に戻ることは出来ないけれど、日々の出来事ではなく、細々としたエッセイのようなものを書いて出したら、先生方はどんな顔をするのだろうか。

こんなものは日記では無いと、無造作に突き返されるのだろうか。

子どもの頃に出来なかったことについて、他にやりようがあったのではないかと反省出来るようになったのは、それだけ私が大人になったということだ。

今週末の江ノ島行きも無くなりそうだから、また土日はたっぷりものを書くことが出来る。

目標


毎日日記を書くようになってから、多分2年半ぐらい経ったと思う。

最初は兎に角書くことを目標にして、twitter顔負けの短文を投稿していたこともあったが、最近は400字以上書くことを目標にしている。

たかが400字、されど400字で、毎日毎日ネタがあるわけでもないし、体調が悪い日は全く筆が進まない。

今日などは本当に書くこと無い日で、何があったとか、それについてどう考えたかとか、捻り出せば書けないこともないけれど、書く気が起こらないというのが事実なのである。

ただ、日記のネタになるような象徴的なことがあった日に筆が進むかといえばそういう訳でもない。

ここまで続けると、最早惰性になってしまっている気もするし、続けたところで誰かに褒められる訳でも無いのだけれど、コロナに罹ったときでさえ書き続けたのだから今更止めてしまうのは勿体無い気もしている。