叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

違和感


最近、YouTubeショートでみた腹立たしい動画について書く。

その動画は特攻隊員が書いたとする遺書を紹介する動画なのだが、内容が兎に角おかしい。

先ず、背景の画像になぜかAIで生成した画像が使われている。

そもそも、現実に起こった出来事を紹介する動画にAI画像を使う神経が理解出来ないし、もし利用するのなら正確な時代考証を行うべきだろう。

それなのに、妙なところに日の丸がついたおかしな飛行機や、訳のわからない軍服を着た人間のAI画像がどんどん登場するのだ。

さらに、最も重要な特攻隊員の遺書を微妙に書き換えて紹介している。

どこかで読んだことのある文章だと思って調べてみると、確かに似たような内容の遺書があるのだが、原文は文語体なのに口語体に書き換えてあったり、途中を端折ったりしているからどうも読んでいて気持ちの悪い文章になっているのだ。

読みやすくするために文語体を口語体に訳すのはまだ良いとしても、肝心の訳し方が下手くそで意味そのものが変わっているものもあるし、どこかを端折るのなら原文ママをどこかに載せておくべきだろう。

そして何より腹立たしいのは、こんなちんちくりんの動画に感動している連中がいることである。

この人たちは、さも彼らを理解したようなコメントをたくさん動画に残しているのだが、嘘っぱちの画像や下手くそな意訳をされた遺書の内容について、少しも違和感を抱かないのだろうか。

本当に彼らの真意を知ろうと思うのなら、AIに作らせた存在もしない人物が登場する動画に真っ先に違和感を持つべきだし、彼らが精魂を込めて記した遺書の原文に触れる努力をするべきだろう。

殆ど創作と言ってよいこんな動画に有り難がるぐらいなら、特攻隊のことなど知らぬ方がまだマシである。

あの戦争からたった80年しか経っていないのに、当時の日本人の感性を理解できる人間は払拭してしまったということに、私は暗澹とした気持ちになってしまった。

オーバー


晴れた日の日中はiso400はやはり厳しい。

私のII型は最速のシャッタースピードが1/500、ズマールは絞りがf12.5までだから、順光でも1段ぐらいオーバーだし、逆光になると3段ぐらいオーバーになる。

それに加えて、逆行時に出るズマールのフレア。

グラデーションが全て吹き飛んでしまって、もう何が何やら分からなくなる。

特に海なんかで撮るとテキメン。

というわけで、カメラの設定としてはちょっと失敗したけれど、写真としては好きなものばかりを載せる。


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ふたつの留意事項、晴れた日の日中は太陽にレンズを向けないこと、露出はむしろ1段アンダーを心掛けること、以上。

価値観


昨日書いた、無関係の人間を写すことの是非が関係しているわけではないのだが、少し前から人間を写していない写真を載せるためのInstagramアカウントの運用を始めた。

そこには空とか海とか花とか、それなりに美しいとは思いつつも自分の中ではあまり価値を感じられない写真たちを載せている。

面白いのは、そういうひと目見て美しいと思える写真を載せていいると、私が大好きな人間を写している写真よりも目に見えて反応が良いということだ。

いいねも人用のアカウントより多くつくし、フォロワーの伸びも明らかに違う。

その代わり、訳のわからないメッセージも頻繁に届くようになったので、一長一短ではあるのだが。

マァ、別にフォロワー稼ぎをしたくて新しくアカウントを作ったわけではないから、今まで通り人を撮ることに専念するつもりではあるのだが、世間的には空とか海とか花とかの方が受けが良いということを改めて見せつけられたような気がして少しだけ悲しい。

こういう小さな積み重ねが、私の孤独を深めてゆくひとつの原因になっている。

飛び火


またまたSNSで論争が起きている。

ことの発端は、ポートレート撮影中のモデルを横からこっそり撮るカメラマンを非難する投稿だった。

論争の詳細についてはとても書ききれないからここでは省くけれど、その論争の中で多くの人が他人を無許可で撮影することは疑いようのない悪であるというスタンスを取っていることがあらためて可視化されると、私としてはやはり心苦しくなってしまう。

世の中の趨勢はやはりそうなのだ。

街をゆく人を無許可で撮影することが刑法上の撮影罪には問われないとしても盗み撮りは盗み撮りだし、多くの人はその行為に対して嫌悪感を抱いている。

私のような写真を撮る人間からすればそれはとても辛い事実ではあるけれど、今回のように盗撮を良しとしない相手に噛み付いても大勢を覆すことはできないし、下手に火がつけば色々なところに飛び火してますます肩身の狭い思いをすることになってしまう。

そもそも、すべての人に受け入れられる写真などこの世に存在しないのだ。

他人を啓蒙しようなどと思い上がることなく、世界の片隅でひっそりと写真を撮り続けることができればそれで良いではないか。

里帰り


モデルのばたこさんの話である。

彼女の里帰りのタイミングに合わせて、初めての地元ポートレート撮影をさせていただくことが出来た。

愛知でポートレートを撮るなら名古屋の栄あたりが定番ではあるものの、それではありきたりで面白くないので、ばたこさんが青春を過ごした小牧市を案内してもらいつつ、往時を偲びつつ写真を撮っていった。

ロケ地の選定からコースまであなた任せというのは撮影者としてはあるまじき態度のように思えるけれど、ばたこさんの思い出話を聞きながら写真を撮って回るのは新鮮かつ愉快で、このような撮影もたまには良いと素直に思うことが出来た。

実を言うと、いつかモデルさんの地元でポートレートをやりたいという思いは昔からあったのだが、この個人情報にやかましい時代にモデルさんのプライベートに踏み込むことはあえて避けていたから、今回このような機会を与えていただいたことに本当に感謝している。

それに今回は、地元感や親密感を出すために写ルンですも投入したから、いつもとは一味違うポートレートが撮れていると思う。

仕上がりが実に愉しみである。

接点


だらだらだらだらと仕事をして、大して疲れてもおるまいと思ってはいたけれど、夜勤はそれなりに疲れていたらしい。

どうにも寝覚めの悪い日だった。

ただ、今日は人に会う予定があったからいつまでも寝ているわけにもいかず、眠たい目を擦りながら名古屋まで出てきた。

今日はとあるSNSで繋がった写真を趣味にしている同郷の人と会ったのだけれど、これが実に愉快で、本当はコーヒーを飲んで終わりにする予定だったのがもつ鍋を一緒に突くような仲にまでなってしまった。

10歳も歳の離れた人と初対面でここまで親睦を深めることができたのは、写真という共通の趣味があったからで、最近はその功徳というものをひしひしと感じている。

この功徳を悪い方に使って人間を不愉快にさせる人も一定数いるようで、そういう話を聞くたびに暗澹とさせられるし、私は大丈夫だろうかと自問することにしているのだが、こんなものは幾ら考えても答えが出るものではない。

平和に、平和に、写真を愉しみたいものだ。

珈琲


最近、喫茶店でコーヒーを飲む。

それもブラックだ。

とある喫茶店で浅煎りだの深煎りだのスペシャルティコーヒーだのを知ってから、いろいろなお店で飲むことが面白くなってきて、ふと見つけた喫茶店にふらりと入ってみたりする。

私は料理もお酒も具体的な好みを言語化することができない人間で、コーヒーについてもそれは同じなのだが、苦味や酸味がお店やブレンドによって違うことだけは分かるようになってきた。

以前はブラックコーヒーなどとても美味しい飲み物とは思えず、暇つぶしに喫茶店に入ることがあってもカフェオレばかり飲んでいたし、最近は喫茶店やカフェがインスタバエの道具に使われているような気がして近づくことすら避けていたのだから、それを考えれば大変な変わりようである。

生粋のコーヒー好きからすればにわかもにわかで、カフェ巡りが趣味ですと言える段階にはまだないのだが、新しい趣味のひとつとして数えられるようにしたいという程度には思っているのだ。

居酒屋巡りに比べれば相当安上がりだし、何より女性ウケが良いでしょうという打算は、ないね。